*近江八幡市池田町五丁目には初期のヴォーリズ建築事務所が建てた三棟の洋館があります。この洋館の一つが吉田悦蔵邸です。吉田悦蔵邸は本館・茶室・レンガ塀の他、附として家具23点と図面3点が滋賀県指定有形文化財、離れた茶室(旧近江家政塾別館 作法教室)は国登録有形文化財に登録されています。
以下ではその建築の由来と吉田悦蔵の人物像について解説します。
現存する三棟が建つ一帯の土地は、明治44年(1911年)11月に、近江八幡YMCA会館(現アンドリュース記念館)に住むヴォーリズを訪ねた富豪の米国人、メアリー・ツッカー女史の寄付金で購入された。 その敷地の東側半分に吉田悦蔵邸とウォーターハウス邸が同時進行で建てられ大正2年(1913年)に完成した。建築費はそれぞれの親族が出している。
この二棟の設計と現場監督はヴォーリズ合名会社のメンバー、悦蔵、レスター・チェーピン、ジョシュア・ヴォーゲルも関わり、最初期のヴォーリズ建築・住宅の姿として貴重である。
住宅が大きめである理由は、伝道集会や文化教室を開いたり、ゲストが泊まれるミッションハウス(宣教師館)の機能を持ち、設計事務所のモデルハウスとしても利用するためであった。
吉田悦蔵邸 本館と付属建屋(滋賀県指定有形文化財 - 建第107号)
大正2年築の(1913年)木造3階建、腰折れ屋根のアメリカン・コロニアル住宅で、明治43年(1910年)にヴォーリズ、建築士のチェーピン、吉田悦蔵の三人で始められたヴォーリズ合名会社で設計された初期の住宅で、ヴォーリズ住宅の原点とされる。二階に和室を一室設けた他は水洗トイレ付属のバスルームをもつ完全な西洋住宅で、現在もその当時のままをとどめている。
本館裏手に接続する和風建築は、大正4年(1915年)、洋式建物になじめない母柳子のために日牟礼八幡宮の絵馬堂裏に所在した古茶室を購入し移築したものである。この部分は17世紀の建築といわれ、幕末に勤王の志士、頼三樹三郎(らい みきさぶろう)が幕府の追手から隠れ住んだという言い伝えがあり、内部の柱には刀傷が見受けられる。建材に舟板の再利用がされていて味のある茶室である。移築当時は葦葺きであったが、後に金属屋根に模様替えされている。吉田悦蔵の交流から賀川豊彦、伊藤忠兵衛、政治家の下村宏、魯迅と親交のあった内山完造らが宿泊した記録が残る。昭和36年(1961年)6月、近江兄弟社を中心に第12回キリスト教史学会が開催された折、出席された三笠宮崇仁親王殿下がお一人で泊まられた。
レンガ塀(同 滋賀県指定有形文化財 – 建107号)
モデル地区としての近江ミッション池田町住宅地の東面を限るレンガ塀の一部も県文化財に指定されている。当初は、間柱(まばしら)の間ごとに竹の網代編みが装飾され開放的な造りとしていたが、現在はレンガで埋められている。琵琶湖の西、衣川という所に中川煉瓦工場の分工場があり、そこの高硬度レンガの焼き損じ品をあえて使用したと推定できる。この焼き損じが味わいのある表情を造りだしている。
家政塾別館 作法教室 (有形文化財登録番号25−0106)
洋館の左手に別棟となっている数寄屋造りの建物は、昭和13年にヴォーリズ建築事務所が茶室づくりの専門家と組んで手掛けた純和風建築で、吉田悦蔵の妻、清野(きよの)が主宰した『家政塾』の和作法と茶の湯の教室として用いられた。
八畳大の床付き座敷を中核として、北に土間、西に四畳の茶室,南に水屋をはりだしている。 戦時中は俳優の故佐分利信氏が疎開で住んだこともある。
吉田悦蔵について
明治23年(1890年)生まれ。 生家は神戸市の油商で、商売に進むべく滋賀県立商業学校(現滋賀県立八幡商業高校)に入学した。 2年目の冬、若きYMCA派遣英語教師ヴォーリズが着任するや、 彼の人格に感化されて友人とヴォーリズ宅に同居、そこで開かれるバイブルクラスを通じキリスト教に入信し、 そこで結成された八幡学生YMCA幹事となった。
明治40年(1907年) 悦蔵の卒業の年、 ヴォーリズは念願のYMCA会館(現アンドリュース記念館)を建て開館式を盛大に行ったが、 翌月に教師の職を解かれてしまう。 しかし、収入を絶たれてもヴォーリズは八幡に留まって伝道を続ける決意をした。悦蔵はその決意に感激し実家を説得して一年間ヴォーリズと二人で行動を共にした。 その一年が過ぎると悦蔵は三井物産の兵庫支店で働くが、 ヴォーリズとの活動が忘れられず明治43年(1903年)近江八幡の青年会館に戻った。
明治43年(1910年)、一時母国に戻っていたヴォーリズは建築士レスター・チェーピンを伴って近江八幡に戻り、悦蔵と三人で建築設計・監理の会社、ヴォーリズ合名会社を設立した。また、近江に「神の国」を建設するというビジョンを達成するため、近江ミッションという伝道団体を組織化した。ウォーターハウス牧師夫妻や悦蔵の母柳子などを招いて団体を次第に拡大させ、 滋賀県各地にキリスト教伝道と西洋文化の種をまいた。
建築設計だけでなく、家庭薬販売、鍵盤楽器、望遠鏡などの輸入販売などの事業、伝道誌「湖畔の声」の発行、結核療養所(現ヴォーリズ記念病院)、学校(現ヴォーリズ学園)、近江兄弟社図書館などを実現していった。 吉田悦蔵は常にヴォーリズの片腕として、実務のかなめとなって働いたが、太平洋戦争の最中、 昭和17年(1942年)に52歳の若さで世を去った。
□ 近江兄弟社理事長、近江セールズ株式会社取締役、近江兄弟社女学校校長、近江兄弟社図書館長、YMCA同盟理事、 同志社理事、 組合教会理事、 滋賀県図書館協会長、 滋賀県社会教育委員などを歴任、 彦根高等商業学校 (現滋賀大学経済学部) と滋賀県立商業学校(現八幡商業)で一時英語講師を務めた。
*近江八幡観光協会パンフレットより一部引用。2019年8月